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ウェブマガジン旅色の沖縄グルメ&観光特集に当店の沖縄そばが紹介されました
■  私のプロフィール

私のプロフィ−ル 上原繁猛

 

 
ヤマグ(きかん坊)な幼少時代
 
私は予科練の生き残りの父(20)と、フィリピンからの引揚者の母(19)との間に、那覇市小禄で、昭和23年に長男として生まれました。
 
母によると、生まれたばかりの私は、一度泣き出すとあやしてもおっぱいを含ませても全く泣き止まず、大変な出べそになり、心配して病院へ行くと、「どこにも以上はない。単なるヤマグー(きかん坊)だ」と言われたそうです。それからしばらくすると。きっぱりと泣き止んだそうです。
 
当時、父はおんぼろトラックの運転手をしていて、稼いだお金はほとんど修理代に消えてしまい、母は父親の実家にお金を借りに行き、どうにか暮らしていたそうです。
 
幼稚園に上がる前に、山原(ヤンバル)に米軍のいい仕事があるということで、辺土名に移りました。
あの頃は「方言はヤバンだ!」ということで「方言禁止令」が出ていた時代です。
入学に備えて、母がどんなに「標準語」を教えても話そうとしなかったそうです。
 
また、はれて幼稚園に入学したとは名ばかりで、ほとんど裏山で遊びほうけていて、いわゆる「山学校」を自由奔放に楽しんでいたといいます。
 
そして、すっかり山原の生活になれて、「ぱぴぷぺぽの山原方言」をおぼえ、那覇に戻りました。ところが幼稚園で山原方言を笑われたとたん、ぴたっつと方言をやめ、標準語だけになり、お陰で今でも方言は得意ではありません。
 
 
 
音楽づけの小学校時代
 
小学校2年の時、頑張った父親は、ペリー市場の真ん前に家を新築しました。その時、薬局に店舗を貸したのです。糸満の人で、実家も古くから薬局を営む若夫婦でした。ところが実家の都合で急に糸満に帰ることになりました。そして、幸いなことに、
 
薬剤師免許証を貸すので、薬局を続けてはどうかと勧めてくれたのです。
薬局という責任の重い仕事に、戸惑いもあったようですが、もともと向学心の強い母です、思い切ってやってみることにしました。回りには、病院も薬局も少ない時代です。たくさんのお客さんが来ました。母もいろいろな本を読み、よく勉強していました。
 
そして、その時から、私が薬剤師になることへの期待が高まっていったのです。
小学校3〜6年生までの3年間、担任の先生も生徒も一緒で、音楽の先生でした。
 
私たちのクラスは、始業前に合奏の練習をし、終業後にまた合奏の練習をしてから帰るという毎日でした。お陰で、学校選抜でなく、クラスでNHK合奏コンクールで沖縄代表に選らばれるという快挙を成し遂げました。また、個人の部でも、ピアノ、シロフォンと優勝者を出しました。それに習字も得意な先生でしたので、沖縄県のコンクールでは、多くの級友が入賞し、私も教育委員会長賞をいただきました。
 
今考えても、素晴らしいクラスで、先生の指導によって、こんなにも生徒の潜在能力が引き出されるものかと感心いたします。
 
 
 
はれて薬剤師に
 
中学、高校と無難に過ごし、昭和薬科大学に進学しました。
大学を卒業すると、すぐに沖縄に帰り、家業の薬局を継ぎました。
 
当時の沖縄の薬業界は、かなり閉鎖的で、古い規則や慣習でがんじがらめでした。商品の値段をかってに下げてはいけない、日曜日の営業は禁止等。本土ではすでに通用しないことが多々ありました。いずれ沖縄にも波及すると思った私は早々に小売業組合を脱退しました。そして、年中無休営業にし、仲間と共に、県内初のチラシをまきました。
効果は抜群で、そこそこの繁盛店になりました。
 
26歳で結婚し、二人の男の子を授かりました。すべては順調でした。
 
 
 
回転寿司、そして・・・・
 
29歳の時、東京進出の夢を抱き、単身上京しました。
そこで出会ったのが「回転寿司」です。
 
沖縄では、本土復帰を祈念して、「沖縄国際海洋博覧会(1957年7月〜1976年1月)」が開催されました。ど派手に宣伝され、大阪万博の大成功を知っている県民は大きな期待を持ちました。海洋博会場の周辺には莫大な資本が投下され、ホテル、民宿、レストラン等、たくさんの商業施設が立ち並びました。しかし、来客数が伸びず。結果はさんざんで、多くの失敗者を出してしまったのです。私の友人の父親もその中の一人で、私から借金して出した店が失敗に終わり、逃げるように神奈川県に移り住んでいました。
 
借金の催促のために訪ねて見ると、彼は回転寿司を経営していました。数人の沖縄出身の若者が働いていて、経営も順調な様子でした。度々訪ねているうちに、回転寿司の魅力にひかれ、自分でも経営したいと思うようになっていました。
 
ところが、沖縄に残してきた妻から突然の離婚宣言。あわてて飛んで帰りましたが、気持ちを変えることはできませんでした。子供二人を引き取り、離婚しました。
 
「家族を幸せにするために一生懸命に働いてきた」
 
その家庭がこんなにももろく崩れ去るとは、夢にも思いませんでした。
心にぽっかり開いた空洞、その空しさを埋めるかのように働き、遊びました。
そして、回転寿司を沖縄に持ってくることを決意しました。
 
その頃の沖縄では、寿司といえば、巻き寿司、ちらし寿司がほとんどで、具は干瓢、かまぼこ、きゅうり、たまご等、生ものは全く使われていませんでした。いわゆるすし屋さんは、高級すぎて、近づきにくい場所でした。という事で、「沖縄の人は、寿司は食べない」「家族で寿司を食べるのはぜいたくだ」と、反対意見ばかりでしたが、決意は変わりませんでした。
 
「刺身はみんなが好きだ、それを使った寿司は最高においしい。1皿100円で、好きなものが、予算に合わせて、好きなだけ食べられる。だから、必ず喜んでもらえる」
 
そう確信していました。
 
回転の機械をメーカーに問い合わせると。700万円の見積もりが来ました。手が出ません! ところが調べて見ると、特許が切れているのが解かりました。そこで、知人の鉄工所と相談して、200万円で作ることができました。
 
店名も「七転び八起、何があっても最後は必ず立つ」と、自らに誓い、「だるま寿司」と決めました。職人は、あの神奈川県で知り合った、若者3人です。
 
昭和53年、私が30歳、いよいよ、「だるま寿司普天間店」の船出です。
初日は、来客数15人の静か過ぎる船出でしたが、明日への期待はゆるぎませんでした。
開店2日目、ここで思いもしない大問題が発生しました。
 
職人が誰も出勤して来ません。連絡もなし。店を開けることが出来ません。まさかの2日目閉店です。目の前が真っ暗になりました。
 
しかし、周りの大反対を押し切って、始めたすし屋です。何がなんでも失敗するわけにはいきません。そこで、腹をくくりました。
 
「彼らを当てにしない。自分でやる」と。
 
3日目に雁首そろえて出勤して来ました。不敵な笑みを浮かべながら言い訳がましいことを言っていましたが、何も耳に入りませんでした。ただただ、寿司の技術を1分1秒でも早くマスターしたい! それだけでした。
 
そして、3ヶ月目に、その事件は起こりました。
又しても、3人そろって出勤して来ないのです。覚悟はできていました。この日に備えて、見習いを採用していたので、びびる彼を励ましながら、二人で切り盛りしました。もちろん私が、寿司を握りました。
 
翌日、出勤してきた彼ら全員に、その場で「クビ」を言い渡し帰ってもらいました。
 
本当は「お前ら全員クビだ。帰れ!!」でしたが。
 
幸いすぐに新しい職人が来てくれ、本当のスタートを切ることが出来ました。
半年程は赤字が続きましたが、薬局があったお陰で、何とか持ちこたえることができました。その後は、売り上げも順調に伸び、松山店、国場店と展開していきました。
 
 
 
出会い
 
昭和59年、運命的な出会いがありました。
 
友人から、青森県の製麺工場の社長、杉本氏を紹介されました。酒を酌み交わす中で、「このままでは、間違いなくつぶれる」の一言が忘れられず、翌朝、ホテルに押しかけて、もう一度昨夜の話を聞かせてもらいました。「話だけでは納得いかないがろうから、会社を見に来い」と言われ、1週間後に八戸の製麺工場を訪ねました。
 
チリ一つ落ちていないピカピカな工場。作業の手を止めて明るく挨拶するパートのおばちゃん達。感動的でした。
 
飲食店部門では、ラーメン屋、うどん屋、中華料理屋、和食、居酒屋と手広く展開していました。明るく大きな声で挨拶し、てきぱきと働く社員さんに惚れ惚れとしました。
 
 
「社員を育てなさい」
 
「時代の変化に合わせ、会社も変化していかなくてはいけない」
 
「会社に体力がある間に次の手を打つ」
 
 
これが杉本社長の基本的な考え方でした。
 
 
 
沖縄そば専門店与那原家
 
そして、この時、
私の脳裏に浮かんだのが、
 
「沖縄そば」
 
でした。
 
ほとんど料理をしない父の唯一の思い出が、残り物の味噌汁に乾麺を入れて、ぐつぐつ煮込んだだけの沖縄そば。
 
小学校低学年のころ、おばあちゃんの家の近くに食堂があり、遊びに行っては、そばをおねだりしたものです。当時は、豚だしと鰹節を使った本格的なそばは、結構なご馳走で、なかなか食べることができませんでした。
 
また、東京で薬学部に通いながら、たまに帰省すると、真っ先に沖縄そばを食べに行ったものです。
生まれてこの方、ずっと身近にある、大好きな沖縄そばを次の一手とすることを
決めました。
 
沖縄に戻ると、すぐに市場調査に取り掛かりました。
 
それまでは、新しい女房とのデートを兼ねた単なる「食べ歩き」でしたが、その後は真剣でした。厨房の見える席にすわり、鍋の配置、大きさ、材料、手順、味、スープの色、値段、麺の種類、色、太さ、出入りする業者、そして従業員とのさりげない会話「忙しそうですね。どのそばが一番人気があるの?一日何人ぐらいのお客さんがくるの?」等。
 
うわさのそば屋はすべて回りました。そして、家に帰ると、すぐに女房と二人で試作をくり返しました。料理上手な彼女は、力強く頼りになる相棒でした。そして、かつおだしのきいた透明なスープと豚骨をじっくり煮込んで白濁したスープの二つを完成させました。いよいよ、実行の時です。
 
昭和60年、今のお店、「沖縄そば専門店 与那原家」をオープンしました。長いこと空き家であった元倉庫を改装した店舗です。その時も、周りからは猛反対を受けました。
 
与那原町は、昔からそば処として有名で、当時も「名店」と呼ばれる店が数件あり、女房と何度となく食べに来たものです。
 
そんな場所へ、全くのど素人が進出するのは、無謀すぎるというのです。
しかし、私には変な自信がありました。そして、「沖縄一のそば屋を作る」と宣言しました。
寿司職人の中に、十代の頃、肉屋に務め、豚肉に詳しい男がいて、彼を店長に抜擢し、これからが本番です。
 
まず、2つのスープのどれを採用するか決めなくてはいけません。当時の幹部6人に集まってもらい投票で決めることにしました。そうすると見事に3対3の真っ二つに分かれてしまったのです。そこで、より多くの人に喜んでもらいたいと2つのスープを採用することにしました。
 
 
県内初! 
 
「選べるスープ あっさり味、こってり味」
 
誕生の瞬間です。
 
 
ところが、いざスープの試作を始めると、なかなかうまくいきません。家庭用のコンロで4〜5人前つくるのと、業務用に400〜500人前作るのでは全く違ったのです。
 
食べる時間が決まっていて、その時間に合わせて作る家庭用と、いつ来るか解からないお客さんに常に美味しいそばを提供する業務用は違うのです。
 
何度も作っては捨て、捨てては作りました。やっと納得のいくスープが出来上がったのがオープン前日の夜中でした。
 
麺の選択にも悩みました。いろいろ試しましたが、現在のちじれ麺がスープとの相性も、からみも一番との結論に達しました。
 
さて、オープン当日、お客様が殺到して、対応できなくなるのを恐れて、何の前触れもせずに開店したのですが、200人を超すご来店があり、胸をなで下ろしたのを覚えています。
 
 
 
人を育てる 
 
あれから、はや28年、その間にも、波乱万丈な出来事はつづきました。
 
モノレールの開通による土地の買収で薬局の閉店。だるま寿司の閉店。和食、居酒屋、次々作っては、潰してきました。
 
いったい自分の人生はどうなっているのだろうと悩んでいるころ、ある研修と出会いました。そこで気づいたのが、自分のことしか考えない、ちっぽけでケチな男の姿でした。
私の望みは、小銭を稼ぐこと、そしてその金で、贅沢をして遊ぶことでした。
 
ですから、稼ぐことには、貪欲でしたが、少し儲かると頭の中は遊ぶことでいっぱいになり、仕事がおろそかになり、衰退していく。そして、次の新しい仕事に手を出し、同じパターンを繰り返す。従業員は金を稼ぐ道具くらいにしか考えていませんでした。
 
給料さえちゃんと払えば、それ以上の人間関係は必要ないと思っていました。
そんな社長の下で、そんな会社のために真剣に働く従業員はどこにもいません。
 
では、どうすればいいのか。
 
「自分自身の人間性を磨くことから始める」でした。
 
私と同じように、従業員もみんな幸せになるために働いている。目的は同じだ。
ならば、みんなが幸せになれる会社を作ろう。そういう思いが湧いてきました。
遅ればせながら、杉本社長の言われた「人を育てなさい」の重みを痛感しております。
 
今は、毎朝、経営理念を全員で唱和してから仕事につきます。
 
  私たちは、全員で力を合わせ
「喜びと満足に溢れる会社にしよう!」
1、お客様の喜びと満足
2、共に働く従業員の喜びと満足
3、私たちを支えて下さる家族、業者さん、地域の皆さんの喜びと満足
 
を実現していきます。
 
まだまだ実現には程遠いのですが、少しでも近づけるように、みんなで努力しています。
 
 
 
与那原家の夢
 
私たちの夢は、100年続く沖縄そば屋です。
 
従業員が明るく元気に笑顔で働くそのお店には、1歳の子供を抱いた若夫婦と100歳になる老夫婦が嬉しそうにそばを食べています。
話題は50年前に食べた「あっさりそばとこってりそば」のようです。
その隣では、与那原家の元従業員のモアイが行われています。
30年続いているのを自慢しています。
 
その横では、サークル帰りで腹ペコの学生たちが、ワイワイがやがや楽しくそばをかき込んでいます。
そこへ、外人の団体さんのご来店です。
タイで食べた与那原家のそばがあまりに美味しいので、本店を訪ねてきたといっています。
 
また、別室では、年々増える全国の与那原家ファンへの発送に悲鳴をあげながらも、嬉々としてお礼状を書いています。
 
こんな夢をみながら、必ず実現できると信じ、みんなで力を合わせ精進していきます。
 
 
最後までお読み下さり、感謝申し上げます。
    有り難うございます!!
 
  有限会社ダルマ 沖縄そば専門店与那原家 代表 上原繁猛